昭和50年09月03日 朝の御理解
御理解 第15節
「氏子が真から用いるのは神も比礼じゃが、寄進勧化をさせて氏子を痛めては神は喜ばぬぞ。」
真から用いるのは神も比礼じゃがと、私共が御用させて貰うとか、お供えさせて貰うとかと云う事が教会の比礼に継ながらなければならないと。教会の御比礼が、またそのまま教団の比礼にも継ながらなければならない。教団の比礼は又そのまま世界平和、総氏子身上安全を祈らせて頂いておる私共としては、そういう世界の比礼とも継ながって行く程しのものでなくてはならない。
それでどうでも矢張りおかげを受けなければなりません。お願いをするからお供えをしておる。おかげを頂いたからまあ、御礼をさせて貰う。まあそれも比礼の元にならん事はないけれども、本当に私はね、寄進勧化を受けてでなくて、もう本当にその身から打ち込んで教会の御比礼ともなって行く様なおかげ、そういう御用が出来る様におかげを頂きたい。今日は親教会であります三井教会の今度御造営が始まります。
それでお神様がこちらのお住居の二階に遷座まします座を変えられた訳です。それで今日は遷座式をするから出て來る様にと云う事で御座いましたから、今日は朝から出らせて頂かねばなりませんが、本当に昔の事を思わせて頂いて、さぁ親教会に普請がある、御造営があるというのに、ああもしたいけどこうもしたいけどと、如何に思うたところでほんの気持ちだけしか出来ませんと、云うても仕方が無い。
けれどもさあ今度御造営がありますのに本当に、昔の事を思うたら夢にも思わなかった様な御用が出来る。云うならばまあ合楽があるから御普請が思い立たれる事が出来ると云う様な事でもないだろうけれども、まあその位な力を注ぐ事が出来る。私は云うならば愈々教会の比礼の、真から用いるのは神も比礼じゃがと云う、只真から用いるとしてもそれが比礼にならなかったら、それが真から用えるのはそのまま教会の御比礼。
例えばあちらの教会にはあんな御比礼を受けている信者さんがおられるから、本当に世の中皆が、それこそびっくりする様な、まあ云うならば立派なお広前が出来る、出来たと云う様なおかげでなからねば、御比礼じゃないですね。今日ここん所はまあ真から用へるのは神の比礼。だから寄進勧化をしては神は喜ばんと仰るが、神様が喜んで下さる様な御用と云うのは、教会の比礼に継ながる様な事でなからねば駄目。
只いくらお供えさせて頂きよってもお参りしよっても、この教会の云うなら生活が維持出来る為に、例えば浄財なら浄財が集まる様な事では、比礼ではないですね。けどそういう教会が沢山あるのです。まるきりその教会の維持をする為にそれだけの信者が在ると云った様な感じです。これでは比礼じゃありません。もうそれこそ食べるとか、生活とかそう云う事は全然問題じゃありません。
例えばこの八月は特に多かったんですけど、それこそ何十名の人達の生活が云うならばなされましたけれども、何処に窪みもなければ慌てなければならない事もない。もうどれだけ多かっても、もう生活の事なんか全然問題じゃない。只あるのは合楽教会の比礼の為に、皆さんのお供えと云う物が行使されている。私は夕べはもう一睡もせずに色々な事を考えさせて頂いたんですけれども、私が小学校を卒業させて頂いてからすぐ酒屋の小僧に参りました。丁度七年間兵隊検査まで小僧生活まあ酒屋に参りました。
そしてまあ将来は酒の卸小売をさせて貰う目的で御座いましたから、生活が矢張り家の方でも、とにかく上の学校に急に行けなくなったと云うのは、父が会社が筑後軌道に勤めておりました。筑後軌道が解散になりましたから、いわゆる収入が途絶えて、それで学校も断念した。それで酒屋の小僧さして貰うてそしてそれを覚えて酒屋になろうと云うのがまあ目的でした。
ですからもう本当に七年間本当によく働きました。店は七時に開くんです。開ければ良いのですけれども、朝の御祈念に荘島から櫛原までお参りをするんです。五時頃起きますとそれから歩いて近所のブリキ屋さんとか鉄工所とか、野菜屋さんとか床屋とかと云うまあ、同年輩の小僧さんやら息子と云うのを起こして回ってそしてお参りしたものです。そしてその時分の給料が月に十円でした。だがそのまま貯められれば大変良いのですけど、矢張り家に仕送りもしなければなりません。
もう本当に私は大体本当にケチン坊になったのはあの時分からじゃった様に思う。もうタオルやらハンカチやら買うた事がなかった。勿論貰いもんですけれども、タオルを頂いとってから両端を切ってからそれがハンカチ代わりと云った風にまあ色々工夫さして貰うてそして、家にも仕送りする。まあ七年間働きましたから、まあ一寸した店でも出せれると云う金が出来ました。
兵隊検査には不合格でしたから、椛目に帰りましてそして以前から小さい酒屋をやっとりましたから、あの時分は年々醸造元に年々貯りに貯ったお金がありまして、これから私が商売をすると言う事になると、あの時分は矢張り盆正月で御座いましたからね、支払いが。まあどんどん出して貰わなけりゃならんから、その前の古い掛けをもうそれこそ、長い間に貯りに貯っておる支払いをしといて、これから気持ようどんどん出して貰わねばならんと云うので、全部それを支払いをさせて貰いました。
そして次の相談をさして貰いましたら、もう本当剣もホロロに血も涙もない、酒は現金でなからねば出さんちゅう事になりました。もう目も当てられん。もう私は二、三日寝込みました。まあ寝込んでばっかりおられませんから教会に参ってお届をさして頂きましたら、教会の近所に朝凪と云う酒屋がありますが、あちらの総代さんのおばさんが久保山さんと懇意だと云うので相談をして貰いました。そんなら家から出して上げましょうと言う事になった。それで愈々なら取引をさして貰うて。
是からそこから取らせて貰おうと言う事になりましたら、今あちらにまだ生きておられますがもうお婆さんですが、あちらは女御主人です。大坪さんあんな風に約束はしとりましたけど、一丁越しにして下さいと云う訳です。一丁越しと云うのは一樽ごし、一樽だけは貸して上げましょうと云うのです。だから次には又金を持って来て、もうそれこそそれならば大した事はなか。
あの時分が一丁が二十七円位でしたろうかね。その位の事ならどうでもなるけど、その位の事ならと思って、田舎の事ですから半年は矢張り敷かなけりゃなりません。それでも借らんよりはましだから、一樽借りて田舎の方へ賣るとを、最小限度にしてそれから久留米市内に得意さんを求めて現金売りを始めました。と云う様な時分に弟が小学校を出まして。それから上の学校にもやりたかったけれども出来ませんですから、頭は非常に良かったです。もう皆から惜しまれたですけど。
なら簿記学校になっとんやろうと云うので、簿記学校に通わせる事になりました。商売はそんな風でとにかくもうない、無一物の中から始めた様な商売ですから、もう弟の学費をと云うのはとても手が届かない。やっとかっとですから。そこで私は新聞配達を始めました。朝の四時に丁度勿体島の飯田との間の所に自動車が新聞を下ろしに来ます。でそれを受け取らにゃならんのが、四時には受け取らにゃなりません。そしてそれを受け取って配達準備をさして貰うてから、善導寺を手前ばかりを半分ばかりと、それから船端、土居それから大城、金島それから大堰。
私はここん所を夕べずうっと、新聞配達をさして頂きました時の事を思いよったら、ついに眠らんなりに、今日のもう三時近くになりましたから、もう起こさせて頂いた。本当に一部落一部落もう一軒一軒、丁度日支事変が間もなく始まりましたから、新聞私が引き受けた時には百五十軒位でしたけれども、やっぱり三百以上出る様になりました。それをもう本当に朝の四時からやっぱり九時、雨の降るときは十時になりよりました。それに私の方の弟が善導寺だけ位は手伝おうと云うので。
自分も学校に行って学費を貰わんならんもんだから、自分からそう云うて言い出しましたけど、実際三時なんぼにはもう弟を起こさんならんのです。それが中々起きれんのです。それでもやっぱり引き起こしてでも起こして行った時分の事をまあ、ほんに酷な事であったな、まあだ十四、五の子供を朝の三時半頃から起こしてから。まあしかも新聞配達をさせてお天気だけなら良いけど、雨の日もありゃ雪の日もある。もうそれこそ盆もなければ正月もないと云う仕事ですからね。
私もようあげな修行をさして貰うたなあと、只弟ば学校にやりたいばっかりで始めました。朝お参りをさして頂いて、善導寺ば半ばまで配って教会にお参りします。弟と二人で一銭銅貨一枚づつ玄関の処、まだ締まってますからお供えして拝んで、それからまたこう配って回る訳です。ようあんな事が出来たなあ、よう私はそれをしきりに思わせて頂いてからこれは一遍家の息子達、五人おりますから五人じゃない四人ですか、私とも五人ですから。一遍自動車でどもよいから一遍私がそういう修行ばさして頂いた所ば。
部落部落ば一遍どうでも連れて回ろうと云う事ばしきりと今日思うんです。それがどうだったでしょうか。十四、五年位だったでしょうか。その新聞配りが十時頃から帰ってそれから朝食を済まして、それから久留米に酒の商いに行くんです。そりゃおかげを頂きましてね。もう新聞配りを止めて良い位に商売が段々面白うなって来て、久留米は馴れた所ですから。少し小卸も料亭とか割烹あたりにも卸せれる様になって、段々あそこ一年二年の間は大変おかげを頂いて。
まあ新聞配りやらせんで済む様にはなりましたけれども、それから間もなく酒屋の方が日支事変が始まりまして出来なくなりまして悪く、もう配給制度になりましたから、もう自分の思う様にどんどん賣られませんので、と思いよる所へ。北京の松岡と云う造り酒屋が支配人を求めておると云うので、私に白羽の矢がたって是非行って呉れと云うのでまあ参りました。その頃からまあ私の好調時代で。
それこそ本当に素晴らしいおかげを頂きましたけれども、まあ結局は着の身着のまま戦後引き上げて帰って來んならん事になりましたけれども、本当に酒屋の小僧時代からこちらに帰って。そしてその一寸した酒屋でも、小綺麗な店の一つも持たせて貰おうと思っておった金は全部払って仕舞うちから、酒は現金でなからねば出さんと云う事を言われて、それからどうにも出来ない所をまあ、神様のおかげを頂いて、まあ久保山さんから一樽のお酒を借らせて貰うて、その一樽を現金売りにする事にして。
それがどうやら回る様になり、さあ弟が学校に行かんならんと云えばそれだけの余裕がない。そこで新聞配りを始めた。しかも今言う様に善導寺から大城の一部ですね、土居、船端、日留生あたりからずうっと、そして大城の土居を上がって金島の方へずうっと行って、それから金島の方へずうっと回って大 をまた隈なくでした。これはもう大変な事だったなあ、もうそれだけでもへこたれるごたる、いわば事でございますけれども、それからまた商いに出ておった。
あの時分の事を昨夜からしきりに思わせて頂いたんですけれども、神様があの時分の云うならば修行をね、本当に修行として受けておって下さった。もう私は私の青春時代と云う事は、そういう意味でそれこそ、ゆとりがあったら、めぐりを作っとる様な事があったか知れませんけれども、もうとにかく何時も窮屈な中にありましたが、あの本当の若者らしい生活と言った様なものが殆どなしに終りました。
けれども、神様はそれを修行として、神様がさせて下さった修行である事に気付かせて下さって、今思うととても修行として出来ない修行、云うなら朝起きの癖と云うものはもうその頃から付いておったんだなあと思います。他人の飯を食う、そして自分で商売をする。中々出来んから弟を学校、そして私が思いますのに、もう本当に親方は弟の為に、弟は親方の為に犠牲になり合うて行く事は素晴らしい事ですね。
これが本当に拝み合いと言う事になって來るのです。主人が家内を家内が主人をお互いが犠牲になり合うて行くと云う行き方は奉仕の仕合であり、拝み合の生活だと言う事を思います。そういう修行があって今日は九時から善導寺にやらせて頂くが、ほんに御普請が始まったから、あげんもしたいけれども、こげんもしたいけれども、思う様に出来ないと云うのではなくて、もう思う存分の事が出来ると思うただけでも有難い。
ならそういう基礎そういう元、まあ今日皆さんに聞いて頂きたいのは、例えばお供えさせて頂くならばですそのお供えが、その教会の比礼になる様なお供えをさせて頂く。寄進勧化をされてするのではない。真から用いれるおかげが云うなら、教会の比礼になる位な御用が出来る様な、願いを持たせて頂かねばならん。今の苦労は今の修行は、そういうおかげの頂けれる事の為の修行だと云う風に皆さん、例えば苦労を感ずるならば、そういう風に頂かれるならば、素晴らしかろうとこう思います。
私が神様のお指図のまにまに福岡での頃に、右ぞ左ぞと言われるままに動いておった時分に、或夏の大変熱い日でしたが、奥城に初代吉木先生の奥城が祖原と云う所に御座いました。山の頂上に低い山でしたけれども、山の頂上にそこにお参りさせて頂く訳です。それに神様がその日に限ってですね、道なき道です。道はあるんですけど薮の中を這入って行く様にして、もう一直線に登らせて下さる様な感じですから、言われるままに歩いてから、薮の中を分けてから登りました。
そして丁度小高い松の所に下に石が一つあった。その石の上に神様は掛けろと仰るから、掛けさせて貰うた。そしたらこのボタンを取れと、まあだその時分はどんな時でも洋服を来ていますからね。これは羽織と同じ事。ボタン一つ外れとってもやかましく、神様はお指図下さっとった時分でした。そしたらボタンを取れ、汗を拭け涼しい風が吹いて來る。それこそ玄海灘が向こうに見えると云う様な素晴らしい景色を神様がいろいろ説明して下さりながらです。
今日はこれからお前が生まれた時からの事を説明してやると云うて下さった。私が父が大坪徳蔵と云う。徳の蔵と云う。徳の蔵から全てを一つにして生まれ出たと、大正三年四月一日であると云う事から始まった。そしてずうっと私が子供の時から、私は冬時でしもやけが大変ひどく学校に行けん位、まあだ今でもこんな痕が残っとる位です。もう手も足もいっぱい霜焼けでした。神様が火の行を三回させたと言われる。
私はこの顔の痕は生まれて六十日振りに寝ませて頂いとる、その蚊帳に灯どんを付けて乳を飲ませるけれども、母がそれこそ昼の疲れで眠ってしまった。それに灯どんが倒れて蚊帳に燃えついた。それで火の海ですからアッと気が付いた時には、私の事は忘れてしまって蚊帳ばこう。それで隣にやすんどった婆ばが総一郎はどうしたかと言われて、ハッと気が付いた。もうそれこそ黒こげの様な状態であった。
それを隣におりました叔母が、それこそお神酒すずを口にくわえてそのままプーッと、その私の黒すぼりの上がっとる体に、お神酒を吹きかけたこと。もう黒すぼりだったそうです。まあそういう様なっと、足にここにあんまりこれは大事がって炬燵かね、昔は火鉢という。火箱と云うのがあった。火箱をあんまり側に置いとってから、火傷して足にこんな位痕がある。一つはその霜焼けです。三つをね、火の行として神が受けたと言われる。まあそういう様な事から、まあいろんな良か事悪か事。
悪い事した事は、神様の帳面にチャーンともうそれこそ、細大漏らさず控えてありますよ。そして先程から申しました、私が荘島から櫛原までお参りします時に近所の子供達を誘ってお参りした事もちゃんとは入っとる。霜の朝にその時に導いた子供が下駄の緒が切れた。それで霜のじゃきじゃきする朝でしたから、もう一遍で参らんと言うちゃならんと思うてから、私が裸足になって彼に下駄を履かせた事まで神様が言うて下さった。まあ勿論、私が新聞配りさせて頂いて。
弟を学校にやらせて頂いた事はもちろんの事、修行として受けておって下さる。本当に神様が修行として受けて下さって、そういう云うならば基礎とか土台と云うものが出来て初めて今日です、なら教会の親教会の比礼になる様な御用もさせて頂こうと思えば、それこそ何もおしげもなく出来れる程しのおかげを受けておると言う事が有り難い。私はね今日は皆さんに真から用へるのは神の比礼と言う事を聞いて頂いた。寄進勧化をしてはと云う、そこではない。
金光教の信心は決して無理にお供えをさせたりはしないと云うのが、最後に説いて御座いますけど、そうではなくて、氏子が真から用へるのは神の比礼と仰る。そこをね、私共が真から用いる。折角用いるならば、それが教会の比礼にもなる様な、用いる様なおかげが頂きたい。それが教団の比礼にならない事はない。云うならば世界総氏子、身の上安全世界真の平和と言った様な、世界に和賀心時代を敷かせて頂く。創らせて頂く様な働きと云う様な事にまでもなって行こうという。
そういう比礼の為にお互いが用いられる実力を頂こう。それには今難儀を感じておるならば、そういうおかげの頂ける為の先ずは、これは修行だ基礎だと思うて、有難く修行させて頂かねばいけません。昨夜から色々眠らんなりに考えた。何十年前の様なことを色々思わせて頂いて、まあようもあげな、いわば苦労をさせて頂いたもんじゃあるけれども。それはね結局弟の為に犠牲になろうと言う親方の切なるそういう願いがね、そう言う事が敢えて出来たんです。
四時間も五時間もかからなければ新聞配りが出来ない位の広い範囲を受け持って、まあ二年余りではありましたけれども、おかげを頂いた。ならその時分の、云うならそれこそ降る日もあった照る日もあった。それこそ盆も正月もないと言うのが新聞配りですから、そういう修行をね、させて頂いておったと言う事を、もう改めて有難いと思わして貰います。そして神の比礼教会の比礼になる様な、お役に立とうと思えば立てれる程しの、おかげを受けておると言う事が有難いと思うので御座います。
どうぞ。